時間順にまとめた骨髄移植体験記


1999年の夏 (登録)

どこかの公共機関たぶん福岡南市民センターで骨髄移植の パンフを 手にいれました。これが私が骨髄移植をしようとする一歩でした。 早速翌週に飯塚の保健所に電話して登録することにしました。

当日は50近いと思われる男性と二人だけでした。その男性は登録は 50歳までしかできないということで、ビデオを観る前に帰りました。 ビデオを見て登録するのと、実際にドナーになるのは違うというの を説明を受けました。その後、女医さん質問を受けながら10ccの採 血がありました。これで一次、二次検査が済むそうです。

家に帰って数字を調べると今後15年間登録していたとしても9割は 声がかからないということだったので、かみさんも安心しました。 「うちのだんなは変わった趣味があるから」


2000年のある月 (運命の日)

いつもの骨髄バンクニュースとは違う薄い青い色の封筒がやってく る。まさかまさかまさかのまさかが来たか。やっぱり、ドナー候補 になっているという案内でした。アンケートがあり、ドナーを引き 受けてくれるかということです。本人は嬉しくていろいろと期待し ているのですが、家族の方はしぶしぶ同意と書けという感じでした。 「うちのだんなは変わった趣味があるから」


だいたい一ヶ月位して2000年のある月 (三次検査)

まず三次検査があります。担当医師とコーディネータと初めて会い ます。コーディネータの方は40歳前後と思われる女性で、いやに控え 目でなんかおどおどしたようにも思われる方でした。でもそれが反っ て信頼感を与えるような不思議な印象の女性です。担当医師は40代 の男性で取っつきやすいいい感じです。

丁寧な説明を受けました。もちろんこちらからもいろいろと質問し ました。ドナーに選ばれたいという意志が強くて一人の患者にどの くらいのドナー候補者が選ばれたかとかいう質問をしました。3人 までだろうということです。これははっきりとはお二人とも知らな いそうです。担当医師自ら採血をしてくれます。とにかく量が多い。 何本ものサンプルをとりあちこちに検査に出すようです。これで妙 な病気にかかっていないかどうかを調べるようです。後日検査結果 が来ました。


まただいたい一ヶ月位して2000年のある月 (最終同意)

最終ドナーに選ばれたという案内が来ました。これであとは家族を ちゃんと同意させれば大丈夫です。最終同意は担当医、コーディネー タ、私の他に弁護士と妻が一緒でした。また見学で若い女医さんが 来ておりました。担当医がまた事細かに説明してくださいます。そ れと一緒にいろいろな裏話をしてくれます。担当医は血液が専門な のでバンクが立ち上がる前から移植手術は携わっているようで、実 際にバンクを立ち上げるときには政治家の力が重要なんだ、なんて自 嘲気味に話してくださいました。

一番この日でショックだったのは次のことです。患者とドナーは素 姓は知らされないまま移植を行います。担当医はそれぞれに付くの で患者の医者からは最小限の情報しか来ません。ですが、一度だけ の手紙のやり取りができます。この話はなんともいいと思っており ました。しかし担当医によると半分くらいしか手紙をもらえないと いうことでした。いろいろと考えられるのですが、担当医はシステ ムが順調に行っているからだと説明してくれました。私は完治しな かったという最悪シナリオを考えておりました。システムが順調と いうのは移植に人間的な感情を入れるといろいろと不都合がある。 特別な薬を買うような感覚で進むのが一番いいのだというが理想だ ろうということだと思います。それがたった数年でうまくいっていると いうことです。

これは私のボランティアという考えを非常に進めました。確かに少 しばかり命張っているかも知れないけれども、ボランティアなんだ からいささかの対価も求めてはいけないんだなと。考えてみたら患 者さんの苦労に比べたら私の受けるであろう不自由なんてほんのちょっ とです。


さらに数ヵ月して2000年のある月 (健康診断および400cc採血)

いよいよ骨髄採取に向けて具体的に動き出します。採取まで一ヶ月 前のこの日は健康診断と自己輸血のための400ccの採血があります。 健康診断はとにかく心臓と肺臓の機能が十分であるかどうかをみま す。つまり重大な事故が起こるとすると麻酔に関わるものだからで す。知人は三次検査の時に子供のころに喘息があったというだけで 外されたそうです。今は全然問題ないのに。

病院は昨今の事情から事故予防にとにかく神経を払っております。 この日も「今から採血した袋に名前を書きますので、見ていてくだ さい」とのこと。署名の数も物凄く有りました。数ヵ月前に初めて の人間ドックをしたばかりだったので健康には問題は無かったよう です。

麻酔担当医から麻酔の危険性についての詳しい説明がありました。 とにかく病人以上に麻酔で事故が起こるのを恐れているというよう すが良く分かりました。レシピエント(移植を受ける患者)と誤嚥 (ごえん、間違えて飲むこと)という単語を教えてもらいました。


二週間後の2000年のある月 (400cc採血)

全部で自己輸血は800ccとることになっていたので、この日も採血 をする。私はこれまで献血の回数は30回くらいあって記念のバッチ ももらって位ですので400ccの採血なんておちゃのこさいさいでし た。なんか鉄材をもらうなんていうのも聞いていたのですが、私に はありませんでした。


二週間後の2000年のある月 (入院)

6日の予定で入院しました。大学ではどうもはじめてのボランティ ア休業ということでした。あるとき事務からどの病院に入院するの ですかとメールがあったのですが、すぐにあれはプライバシーに関 することなので聞かなくていいようですとのこと。

午後に入院したのですが、早速若い担当医を紹介されました。この 若手の医者が、こまごました面倒をみてくださるようです。30歳前 半の方でちょっと前までは別の病院にいたそうです。手術の時に 使う抗生物質に対してアレルギーがないかどうか3つの抗生物質と 生理食塩水の4つをほんのちょっと注射して腫れないかどうか調べ ます。すべて陰性で問題ありませんでした。

この病院では個室を下さいました。ある体験記を読んでいたらICU (集中治療室)に入れられたというのがありまして、壮絶だなーと思 いました。個室は湿度が30%と低いのが困りましたが、あとは特に 問題ありませんでした。その後入院ですからパジャマに着替えます。 病人でないのに病人の格好をするので病院の方も対応が難しいとい うか慣れていないというか面白かったです。定期的に見回って下さ る看護婦さんは「どうですか?って元気ですよね」見たいな感じ。 「暇で暇でしょうがないでしょう」というのもあったのですが、ノー トブックコンピュータを持ち込んでこの手記の元になるような文書 を書いたり、時には仕事で打ち込まなければならないOHP原稿を入 れたりと結構ゆったりと過ごしました。残念だったのはあまり眠く ならなかったので固め寝ができなかったことですか。

この日は麻酔担当医も来られてまた丁寧な説明をしてくださる。つ らそうなのが前日の夕飯後の絶飲食。しかし誤嚥をして胃酸による 肺炎を起こすと非常に面倒であるということで、とにかく守る決意 をしました。


翌日と翌々日

ほとんど休暇のような毎日。子供たちが周りにいないので静かであ りがたい。やっぱり日本人にとってリゾートというのは病院のこと なのかなという持論を妙に納得してしまいます。昨年は不覚にもマ イコプラズマ肺炎というのを子供にもらってしまって、結局10日ほ ど入院する羽目になりました。あのときはとにかく寝て楽しい入院 でした。今回はあまり眠くならないので、大まかには本を読んで、 TVをみて、三食を楽しみにして食べて、パソコンで遊んで過ごしま した。子供たちは母が実家に連れていったので、面会時間はかみさ んと二人で過ごせたのも楽しかったです。もっとも彼女は半分は仕 事仕事言ってパソコンに向かっておりましたが。

病院では外泊してもいいですよということだったけれども、待って いる患者さんのことを思うととてもそんな気になれない。万が一で も外にいて事故にあったら、それこそ患者さんに申し訳がたたないも の。


次の日いよいよ手術日当日 (手術日)

手術は12時からなので、午前中はもっぱら準備。絶飲食なのでやは りつらい。お腹の方はいいのだが、湿度が低いので喉が乾かないよ うに注意する。9時頃より血圧のチェックと点滴を行いはじめる。 これはブドウ糖と電解質をとるためのごく普通のものを5時間にわ たってする予定のもの。この病院では麻酔導入薬や術後の抗生物質 や自己採血した血を戻すときにこの点滴からすべておこなうことに なっています。ということで、痛いのは一回と思っていたら、若い 担当医が謝りながら現れてもっと太い点滴の針にするとのこと。輸 血の際にはもう少し太めにするのだそうだ。前の病院と少し違うの で病院の方針でしょう。しかしいつも付ける腕の折れ曲がるところ ではなくて、腕動いても大丈夫のように手首の肘の中間くらいにし てくれて、また針も突刺すときには金属であとはその中からプラス チックの針が出てくる新しいタイプなので痛くなくてありがたい。 看護婦さんが現れて指輪をはずした方がいいと教えてくださる。な んでも点滴をしているときにむくむことがあるそうです。

手術する時ってパジャマでなくて手術着に着替えます。せっかく朝 に新品の下着にしたのですが、なんのことはない。この話を看護婦 さんにしたらうけておりました。手術着は下は下着をつけずにすっ ぽんぽんです。

11時頃に胃酸を押さえるための薬(ガスターかな)と軽い精神安定剤 を少量の水で飲む。寝ているとコーディネータの方が来られる。寝 たまま対応しました。12時になると幅の狭い移動用のベットに乗せ られて手術室に入ります。麻酔担当医は親切にも私が興味深くてしょ うがないのを良く知っていて、いろいろと事細かに説明してくれま す。「このクリップを指に挟むと血液中のへモグロビンが酸素をど のくらい運んでいるかを教えてくれます。現在は90%で非常に良好 です。昔は唇が青いからまずいのではないかといって調べるのに少 し時間がかかったけれども今はほとんどの情報はリアルタイムでわ かります。」ここの看護婦さんもすごく手慣れていますね。という 質問には手術室の看護婦さんはまた別だからとか。「心電図をとり ます。」「それでは帽子をかぶります。」なんか手術って感じだな....

ええ?ここは病室かな?そうか手術していたのか。いや終わったの か。コーディネータの方と母と子供たちが来ている。何やらうすら 寒いぞ。周りでは担当医と看護婦が処置をしてくださっている。例 の酸素管を鼻にしたり。この辺が実は非常に面白かったです。

全身麻酔は初めての経験だったのでもともと興味があったのですが、 今考えてみると次のようにまとめることができると思います。頭は ぼーっとはしているけれども、思考回路は生きているので論理的に はむちゃくちゃなことは言わず、わりとはっきりしたことを言う。しかし 短期記憶が非常に悪いので完全に忘れてしまっていることもある。

完全に忘れたのはテレホンカードの度数が50を切ったという話を私 がして、母がその代わりにテレホンカードを置いていったというの があります。あとでテレビの前にテレホンカードが置いてあったの でかみさんが電話しろと言うことで置いていったのかと完全に勘違 いしました。コーディネータの話では手術室から出てきたときも 「ありがとうございます」とか「大丈夫です」とかはっきりとした 口調で担当医と話していたそうです。まったく覚えていませんが。 これが3時半くらいです。

さて、ぼーっとしているのでみんなにはすぐに帰ってもらうことに して寝ます。夕方ノックの音で目が覚めるとかみさんが来てくれま した。この時も麻酔の影響でやはりボーッとしております。ザウル スにかみさんのPHSの番号が入っていないから入れてくれとか、写 真を撮ってくれとか一通り頼んだ後にやはりすぐに帰ってもらうこ とにしました。これが5時半くらいです。

何時だか分かりませんが、担当医が来てくれていろいろと説明して くれました。相手は血液型が違うのでまず赤血球を取り除いてから 移植が始まるので11時頃からスタートするだろうとか、2週間ほどす ると造血が開始されるからとか。私からは1200ccの骨髄液を採取す ることができたそうです。体重からは判断すると最大1400ccですか らわりと採れたようです。この晩は誤嚥するといけないということ で夕飯は食べてはいけないということになりました。

少しして若い担当医が来て細かい処置をしてくれました。水が飲め るかどうかを見てくれて飲み物はよろしいということになりました。 また酸素管はとれました。また自動的に血圧を測定する機械も取り 外されました。傷口を見てガーゼのつけかえをしました。これが面 白くて、傷口を押さえるためにおしぼりみたいのを置いてそれから 大きなテープで押さえ込みます。仰向けに寝ると傷口が自動的に押 さえ付けられます。手術着からパジャマに着替えました。点滴をま だ続けていて11時まで抗生物質を入れていました。このころになる と麻酔の影響はだいぶとれているようですが、それでもまだ眠れる という便利な状況でした。

おしぼりみたいので傷口を押さえている。手術の翌朝に撮影。


これが傷跡。7つあるのがわかりますか?手術の翌日に撮影。



手術翌日

晩には寝返りを打つと痛いのでそのたびに起きました。私の場合に は、他に障害となるものは、おしっこをすると痛いというものでし た。もう点滴も無くなっているので歩くことができますが、よたよ た行くような感じです。で、おしっこをするときにううということ になりました。あとは熱も37.1度程度でたいしたことはなく、はきけ や喉の痛みなどはなく大丈夫でした。傷の痛みは姿勢を変えるとき に痛いのは痛いのですが、動かないと大丈夫です。歩くのは長距離 は辛いだろう。しかし現実にこの日はパソコンで大学から持ち込ん でいた仕事をばらばらと数時間に渡ってやっておりました。ベット に座っている分にはなんの問題も無かったものですから。しかしこ のままじゃ正常な生活はできないぞ。

担当医の指示でお風呂は術後5日してからということになりました。 ちょっとオーバーに時間をとっています。とにかく私もここで変な ことを起こすと次のドナーの方が不安になることになり、ひいては このシステムを危うくするからとにかく問題が無いようにしたい。 お風呂の代わりに熱いタオルをいくつかもらって体を拭きました。 意外と気持のいいものでお風呂の代わりになりますね。

とにかく不自由というのはいい勉強になります。兼行法師の徒然草 に「強い人は友だちにしたくない」というのがありますが、自分が 不自由になれば弱い人のことが実感としてよくわかります。そうい う意味で大病をしている人は、人の痛みが分かり、人生の師です。

この日は若い担当医が血液検査を二度ほどしてくれました。筋肉が 壊れるときにできる酵素が多いとのこと。後は特に問題がない。ま た朝食後からクラビット100mgという抗生物質を飲むようになりま した。これは三日間続きました。担当医からむこうの移植もうまく 行ったことを教えてもらう。コーディネータの方が来られて図書券 をもらいました。財団からだそうで、個人からではないことを確か めました。花束をもらうというのを他の方のホームページで読みま した。女性なんか花束が嬉しいでしょうね。


手術の翌々日 (退院)

朝起きてみると昨日よりも格段に腰の調子がいい。この時にはほん とうに感激しました。もうこの歳(36ですが)になるとさすがに回復 が遅いので、風邪など治りが悪くい。しかしこの時には劇的に良く なっていてびっくりしました。これだったらちょっとで元通りにな るだろうという自信になりました。

この日の10時に退院することにしておりました。担当医の方々にお 礼を伝えて、病院を後にしました。この日は久しぶりに外に出たこ ともあってなんとも新鮮な感じでした。お昼を食べてからは大人し く家でごろごろと過ごすことにしました。


二週間ほどして (術後の健康診断)

手術後の経過がどうなっているか検査をすることになっています。 私の場合には一週間ほどでほとんどよくなって、二週間では触って も痛くなく日常生活には不便しないところまで回復しました。一週 間くらいのところで子供とキャッチボールをしたら、なんとなく傷 の周りがむくんだりしたので、運動はやめておくことにしました。

二週間後の検診では、血液検査と尿検査があり、担当医と話をしま す。傷の方はほとんどよいようでした。そこでいくつかの質問をし ました。血液型が変わるってどうやってとか、50%しか助からない なんてひどいとか。

これで直接お会いしてお話しする機会はなくなりました。あとはア ンケートに答えるとかいうことが残っているはずです。ところが。


検査翌日

翌日コーディネータの方から電話があって白血球の数が多かったと いう結果でもう一度検査をしなければならないということになりま した。ラッキー!またお会いすることができるぞ。実は写真を一枚 も撮っていないことに気が付いて非常に残念に思っていたところだっ たんです。原因は子供から下痢嘔吐症という風邪をもらって腹痛を 起こしていたからだと思います。当日の朝は腹痛で目が覚めましたから。 前日の研究室の忘年会では注意して飲んでいたはずなのに、おかし いと思ってよくよく考えたら、子供の風邪を思い出しました。


一週間経って (再検査)

今度は血液検査だけで30分ほどで正常ですので問題ありませんとい うことになりました。念願の写真も撮らせてもらいました。患者さ んへの手紙もこの日に渡しました。これでこの手記を終りにします。

人を助けたいとかいう目的ではなくて、この骨髄バンクというシス テムに興味があるところから始まったのですが、今はとにかく患者 さんが元気になられることを祈っております。


手術後3ヶ月ほどして (アンケート)

さらに追記することにします。まだまだ骨髄移植の続きがあったのでした。

3ヶ月ほどすると骨髄バンクの方からアンケートが来ました。手術 直後のアンケートとほとんど同じで、痛みはないですかとか、満足 しましたかとかいうような内容です。腰の違和感はだいたい一ヶ月 くらい残りましたが、3ヶ月も経つと何も残っていません。あの頃 が嘘のようです。


手術後4ヶ月ほどして (感謝状)

ある日、筒が届いたので何事かと思って開けてみると、立派な感謝 状でした。これは知らなかったので驚きでした。名前は厚生労働大 臣で書かれていました。すべての文字が墨で直接書かれているもの で、初めてもらうものでした。ありがたいと思うのと同時に、ここ にお金をかけるのであれば、もっと患者さんを助けることに使って くれればとも思いました。

しかし、世の中こういう感謝状が効くところがありまして、年輩の 親戚には「よくやった」という実感がわくようで、そういう意味で はやはりありがたかったです。


手術後6ヶ月ほどして (患者さんからの手紙)

もしかして、そろそろ来るかなと思っていたころ、骨髄バンクの事 務局から電話があり、患者さんから手紙が来たので送るけど、住所 は変わっていませんか、明日は受け取れますか、配達証明付で送り ます、ということでした。

ついに患者さんから手紙を受けることができました。とにかくここ までは成功しているのだというのがひじょうに嬉しかったです。現 実は厳しくて、もうすっかり治って元気で普段の生活をしています なんて書かれていなくて、少しづつ復帰に努ていることでした。 また 手紙にはこれまでのことやら、今の状況やらが丁寧 に書かれていました。もっと励ましの手紙を書きたいところなので すが、お約束で一回きりしかやり取りができないことになっていま す。 これで本当にこの骨髄移植に関してのお話も終りになると思います。 たくさんのお世話になった方々に感謝しております。 患者さんが普通の生活に戻れるように心からお祈りしております。 また多数の方々の力があって成り立っているこの骨髄バンクのシス テムが、今以上にうまく機能することを期待しております。


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